硫黄島

◎島の将来ビジョン

『5年後の硫黄島は来島者500%を目指します』

◎ビジョン実現のためのプロジェクト案

島の資源を活かした”遊び”プロジェクト

ジオパークを使った”学び”プロジェクト

村民・移住者の新しい職業をつくる”稼ぐ”プロジェクト

島名 硫黄島(鹿児島県、三島村)
人口
(平成28年4月1日時点)
357人(3島合計)
位置 鹿児島県薩摩半島の最南端・長崎鼻から南南西約40kmに位置します。
面積 11.74km²
地勢 島の北東部には活火山である硫黄岳がそびえ、また島のいたる所から温泉が湧き出しています。日々変化する噴気や温泉の色から、生きている地球の姿を感じられる島です。
気候 東は太平洋、西は東シナ海に臨み、黒潮の影響を受ける亜熱帯性気候です。夏場は台風の進路に当たり、冬場は季節風の影響を強く受けます。
産業 畜産を主な産業としています。温暖な気候の中、島の地形を生かした放牧により、特産の黒毛和牛の飼育に力を入れています。漁業は伊勢エビ漁が中心です。
一方で、昨年は日本ジオパークに認定されたこともあり、観光客が増加しています。また筍のブランド化にも取り組んでおり、成果があがりはじめています。

火山がそびえる地球を感じられる島で、鹿児島市からフェリーで3.5時間ほどです。

鬼界カルデラの痕跡が壮大な崖として見ることができます。さすが、ジオパーク認定された島!

平清盛に謀反を起こした僧「俊寛」が流された島でもあります。小屋なんかも残っており、歴史を感じますね。

まったくえぐみのない大名筍、高品質の椿油など、多彩な特産品があります。

ガスが噴出していて立入禁止になっている地域ですが、許可を得てのガスマスク登山体験や研究活動も行われています。

昔から硫黄がザクザクとれます。中国との貿易にも使われていたみたいです。

硫黄を使って、現在ではほぼ絶滅状態の国産線香花火を作るワークショップが開かれます。やってみたい!

火山の島は、温泉の島でもあり、島のあちらこちらに温泉が湧いています。自分でも掘れるみたいですよ〜

海にも潜れます!海底からガスが湧いているので神秘的な世界観だそうです。

シーカヤックで、海と大地を感じるツアーも開催されていますよ!

鹿児島からほど近いところでも、こんな変わった魚が採れるんですね〜

なんと!野良孔雀(クジャク)もいるのです。

島には生活を選ぶ自由がある。
世界一のジオパークを目指して。
安永 孝さん/硫黄島

40代になり、幼少期を過ごした硫黄島に20年ぶりに暮らし始めることを決めた安永さん。都会で長年働いていたからこそ感じられるようになった、島の魅力とは。活火山と共に生きる安永さんに、お話を伺いました。

ー生まれ育った環境を教えてください

私が小さい頃は、島に炭鉱があって、たくさんの人が島に出稼ぎに来ていました。島に住んでいる人は500人位いて、同世代の子もたくさんいました。今とは違って、海岸も開発が進んでいなくて堤防もなかったので、浜辺で相撲をしたり、海で泳いだりしていました。山では鳥を追いかけていましたね。定期便は週に一度くらいしか来ていませんでしたし、貧しい時代でしたから、島の外に遊びに行くことは、ほとんどありませんでした。

島には高校がないので、中学卒業は鹿児島に出ました。私は幼くして父を亡くしていたので、兄弟や家族を支えるため工場で働きながら、定時制高校に通いました。高校卒業後は、叔父が経営する工場で働くために、大阪に出ました。

この頃になると、弟たちも中学を卒業したので、いくらか余裕が出てきました。お金を貯めて大学に行き、もっといい仕事に就きたい、なんて思っていましたね。

ただ、大阪での仕事は忙しすぎて、仕事後に勉強するほど気力を保てませんでした。結局、身体を壊してしまい、22歳で鹿児島に戻りました。硫黄島に戻っても仕事がほとんどないことは分かっていたので、鹿児島で暮らし続けました。

ー島に戻ったきっかけを教えてください

42歳の頃、村長から「仕事を用意するので、島に戻らないか」と声をかけられたのがきっかけです。当時、村では小学6年生の子どもがひとりもいなくなってしまい、そのままでは学校の先生がふたり辞めなければならない状況でした。何とか小学6年生を島に受け入れようとしていて、私の娘がちょうど6年生だったので、声がかかったんです。

数年に一度は島に遊びに帰っていましたから、島の様子は分かっていました。ただ、島ではどうしても人の距離が近くなるので、人間関係がうまくいくか、少し不安もありました。どちらかというよりも、私より妻の方が移住に乗り気でしたね。というのも、それまで私の仕事が忙しくて、家族で過ごす時間がそこまでなかったんです。島に住めば家族の時間が増えるので、妻は移住に前向きでした。

最終的に、島に戻ることを決めたんですけど、戻ってきてすぐの頃は、暇すぎて何をしていいかわからなかったですね。もちろん、仕事はしていましたが、以前と比べればだいぶ時間に余裕があります。温泉に浸かりながら、ぼーっとしていましたね。

それでも暮らしていくうちに、子どもの時には気づけなかった、島で住むことの魅力を実感するようになりました。都会で働いている時は、常に仕事や時間に追われて、精神的にも肉体的にも追い詰められていました。それに比べて、島では何をするのも自由です。時間がたくさんありますから。自然くらいしか遊ぶ場所はありませんが、山に登るのも、海で釣りをするのも自分で自由に決められます。ゆっくりと時間を過ごせることの良さが、この年になってよく分かったんです。

ー現在の暮らしについて教えてください

今は、仕事として民泊を運営しながら、区長として地域活動に勤しんでいます。

民泊を始める前は、行政の運営する「里親制度」を利用して、10年近く、都会の子どもを家に受け入れて一緒に暮らしていました。硫黄島は子どもが少ないので、島外からの子どもを積極的に受け入れて、1年間、島の人が里親として育てる制度があります。その制度を小基本的には学高学年から中学生が対象で、この制度を使って島に来る子どもは、都会の学校に馴染めなかったり、勉強についていけなかったりする子がほとんどです。

元々は、区長という立場上、断れなくて里親を始めたんですが、実際に受け入れると、とても楽しかったですね。子どもを受け入れるのは大変なことですが、子どもたちが島の中で変化していく姿を見れるのが面白んです。ある子は、都会の学校で不登校、眉毛もなくてズボンも下げて履いているような風貌で島にやってきました。でも、島ではそんな格好をしている人は他にいないので、次第にみんなと同じようになっていくんです。それで、勉強をしてみると、成績がぐんぐん伸びて。高校からさらには高等専門学校に進学し、今では大手企業で海外勤務をしています。

そういう子が、島を出た後も遊びに来てくれたり、電話をくれたりするのは、本当に嬉しいですね。里親をしてよかったと心から思います。

ただ、妻も私もいい年齢になってきたので、子どもを受け入れるのは少し負担に感じるようになってきました。責任もありますし。それで、里親ではないかたちで島外の人との交流が続けられるようにと、民宿を始めたんです。と言っても、民宿はほとんど妻が切り盛りしていて、私は食事のための魚を釣ったりするくらいですね。

区長と言うのは、いわゆる行政の仕事ではなくて、自治体の会長のようなものです。村の人たちの面倒を見るというか。あとは、祭りや伝統行事の仕切りをしたり、行政と連携して新しい物産の企画をしたり、そんなことをしています。

ー安永さんの感じる島の魅力を教えてください

まずは景色。火山がそびえる景色は、どこから見ても綺麗です。次に温泉。海水に面した「東温泉」は、ガスも水道も電気も引かれていません。沸かすことも冷やすこともできない中、湧き出た温泉と海水の調節のみによって、人が入れる温度に保たれています。さらには、海鮮。島では漁業は行われていないんですが、いろんな種類の魚がとれます。カンパチとか、高級魚のアカジヨウ(スジアラ)とか、伊勢海老なんかも釣れます。

硫黄島はジオパークに認定されるくらい、自然が豊かです。ジオパークに認定するに辺り、火山に詳しい研究者の人も島に出入りするようになりましたが、研究者によると、世界中の研究者でも見たことのないような火山らしいので、調べたら面白い発見があるのではないかと言われています。

活火山ですが、噴火警戒レベルはとても低くて、頂上付近まで登ることも難しくありません。今は、鉱山が閉鎖されて、整備をする会社がいなくなった道路が決壊してしまったので入山禁止になってしまいましたが、私が小さい頃は、よく登っていましたからね。今後は、この火山を登るツアーを企画できたらと思います。もちろん、火山ガスの危険性はあるので、しっかりとしたガイドが付いて、防毒マスクをして登れるようにしたいと考えています。登山が好きな人にとっては、活火山を頂上付近まで登れたら、一生の思い出になると思います。

硫黄島には、火山の様に世界にアピールできる素材はたくさんあるので、その素材をしっかりと生かして、世界一のジオパークにしたいと考えています。そういう意味では、島にある魅力を活かして新しい取り組みをしたい人にとっても、住んでみたら面白い島なのではと思います。

安永 孝さん
1952年生まれ。鹿児島県三島村の硫黄島出身。民泊を運営しながら、区長として地域活動に取り組む。