忽那諸島

◎島の将来ビジョン

新しい人・新しい産業で賑わう、生き生き暮らせる島

◎ビジョン実現のためのプロジェクト案

忽那諸島にある様々な特産品を活用した新商品の開発

島名 忽那諸島(愛媛県、松山市)
人口
(平成28年4月1日時点)
5,382人
(有人島9島合計)
位置 忽那諸島は、松山港沖東西約20km、南北約28kmの瀬戸内海国立公園西部に位置し、9つの有人島と多数の無人島からなります。
面積 44.75km²
(有人島9島合計)
地勢 島の大半が山であり、山頂近くまで果樹園(みかん畑)として利用されています。また、島のほとんどが瀬戸内海国立公園に属している島です。
気候 温暖な瀬戸内海気候。日照時間が長く、降水量は少なめで、積雪もごく少量。台風の通過も太平洋側と比べて少なく、穏やかで恵まれた気候条件です。
産業 忽那諸島は柑橘栽培を主たる産業とする島です。かつては温州みかんや伊予柑が主な栽培品目でしたが、オレンジの輸入自由化による柑橘価格の低迷等により、様々な柑橘を栽培する農家が多くなっています。特に「まつやま農林水産物ブランド」認定品である、紅まどんな、せとか、カラマンダリンなどの柑橘は、都市部の青果市場でも高値で取引されており、この中でも全国で愛媛県が全出荷量の65%を占め、特に松山市の生産量が他の県内産地を圧倒している、カラマンダリンは完熟する時期が4月上旬で、栽培は無霜地帯かつ暖かい土地であることが望ましいとされており、忽那諸島は最適の地であると言えます。

中島に到着!案内板には、「みかん」。島のあらゆるところに畑がある事がわかります。

島の景色。あたり一面が「みかん畑」。まだ青々としています。
のどかな雰囲気の街でした。

ネットが張ってある畑は、価格が高い品種とのこと!面白い豆知識。

島には「焼き杉」を使った見事な建物が多くみられました。
民家はさすがに写真を掲載できないので、島の施設を投稿。
立派なお家が多く、焼き杉を使った建物は、黒くてかっこいいんです!

商店街を通っていると、シャッターアートに出合いました!

丘陵地は「べにふうき茶」の栽培にも適しているようで、お茶が栽培されていました。みかん畑×お茶畑×瀬戸内海。

島で採れたお魚をつかったお料理。新鮮で美味!

トライアスロンが行われる姫が浜。出場者、観客、ボランティアあわせて3000人くらいが島に訪れるそうです。

島で採れたイカをつかった「BONDS」のパスタ!ゲストハウスとカフェを運営されているおしゃれな空間でした。

恐ろしい海の透明度。自然の資源が素晴らしすぎます。「BONDS」前の浜にて。

みかんの収穫に使うトロッコ列車のレール。いつかは乗ってみたいです。

みかんジュースとみかん畑。空の青と畑の緑とみかんのオレンジ。自然の色の組み合わせ。

「島には人を育てる力がある」
島の振興が人生の使命、40年の挑戦。
田中政利さん/忽那諸島

愛媛県松山市にある忽那諸島で、島の振興に尽力する田中さん。高校卒業後、アメリカに渡り、九州で農場立ち上げに挑戦していた田中さんが、島に戻ることを決めたきっかけとは。「地域を良くすることは簡単ではない。でも諦めてはいけない。」と語る背景を伺いました。

ーどんな環境で育ちましたか?

私が生まれたのは怒和島(ぬわ)という、愛媛県松山市から20キロほど離れた場所にある島です。忽那諸島という島嶼群の一つで、目の前にクダコ水道があり、好漁場として知られています。小さな離島なのですが、朝起きると周りにたくさんの船が泊まっていて、特有の世界観がありましたね。小さい頃は、この海をずっと行くと世界中どこにでもいけるんだとワクワクしていました。

私が生まれたのは、戦後のごたごたした時期です。みかん農家を営む家庭で、5人兄弟の長男です。物心がついた頃から島ではみかん栽培が盛んで、私も小学校2・3年頃から仕事を手伝っていました。20kgの木箱を3つ・4つ運んで、戦争で膝を痛めた父をサポートして。両親からは「みかんさえ作れればいい、学校に行かなくてもいい」と言われていました。

それでも、中学卒業後、松山にある愛媛大学農学部附属農業高等学校に行かせてもらいました。両親からは家業を手伝うよう言われていたんですが、ばあさんが「行かせてやれや」と言ってくれたんです。小さい頃から、島を行き来する船を見て外の世界に憧れていたので、嬉しかったですね。松山の商店街は華やかで、心が躍りました。

ー島から離れようと考えたことはありますか?

実は、高校卒業後、数年間島を離れていたんです。国の制度で農業研修生として、米国に1年間滞在していたんですよね。戦争で負けたアメリカから学ぶべく、日本の農村地方の青年を派遣する制度に応募したんです。アメリカに行ってみたいという好奇心が大きかったですね。親には反対されましたが、ここでもばあさんに協力してもらい、参加することができました。

20歳でアメリカに渡り、21歳の誕生日をアーリントンの地で迎え、視野が大きく変わりましたね。帰国後は島がとても狭く見えました。アメリカで広大なみかん栽培を見せつけられて、「いずれこの連中と戦わなければいけない」という危機感を持ちました。

そんな時、島の先輩がアメリカに対抗できるみかん栽培をするため、九州に渡り、大規模農場経営に挑戦し始めました。私にも要請があり、島を離れて一緒に九州に渡ることにしました。

さらに、3・4年ほど経った頃、九州で新しく土地が売りにでるため、そこを使って自分の農場を持たないかという誘いをいただきました。5千万以上借金が必要だったのですが、先輩が働きかけてくれて県からお金を貸してもらえることに。若干25歳の私にはとても大きな話でした。

すごく迷いましたね。アメリカで学んだことを日本で活かしたいという気持ちはあるけれど、成果が出るまでに少なくとも5年はかかる。みかんを追いかけて故郷を捨てることになっていいのか。祖母や母が気になる中、このまま九州に居続けていいのだろうか。悩んでたくさんの人に相談した結果、誘いはお断りし、島に帰ることに決めました。

ー島に戻ってからはどんなことに取り組まれましたか?

みかん以外に柱を作ろうと思い、水産領域で事業を始めました。みかんは島の歴史の中で間違いなく私たちの暮らしを支えてくれました。その柱を残しつつ、さらに何か新しいものを生み出したい。先人がそうしてきたように、地域に起きている課題を乗り越えなければいけない。そう考えて改めて島を見つめ直した時に、この島は、みかんと同じくらい、水産に適した環境だと気付いたんです。そこから、周りの方々の協力を得て、釣り餌につかうゴカイの養殖を始めました。

事業が順調に拡大していった33歳の時、村の総代という世話役を引き受けることになりました。様々な経緯からなり手がいない状況で、村が立ち行かなくなる危機に陥っていたんです。ここからは島の基盤整備を行うため、国の離島振興の予算をいかに勝ちとるかを試行錯誤しました。道や学校を拡張整備して、東京にも随分通いましたね。家業の拡大は一旦停止して、島を発展させることを自分の使命としてそちらに力を入れるようになりました。

平成17年1月には、島が松山市に編入合併するという大きな転機がありました。自分たちの町がなくなる寂しい気持ちと、新しい市への期待感が入り混じった複雑な心境でしたね。そんな中、松山市側からの、合併して良かったと思ってもらいたい、夢でもいいから地域を前に進める施策を提言してほしいという背景のもと、夢工房という組織が発足しました。夢工房では27人の仲間が36個の施策を提言。提言するだけではだめだと考え、合併翌年に松山離島振興協会をメンバー総意のもと設立し、昨年まで10年間会長を務めました。

この10年の大きなテーマは、島の子どもが減っている現状をどう変えるかですね。島のハード面を整備してきたことに自信をもっていたのに、実際に学校に行ってみると、子どもが減っている現状をまざまざと見せつけられたんです。私がやってきたことはなんだったんだろうと思いましたね。

それからは、松山しまサミット実行委員会や松山島博覧会実行委員会、まつやま里島ツーリズム連絡協議会などを通じていかに島に来てもらうかに一層力を入れるようになりました。

ー田中さんが考える島の魅力を教えてください

日本でも随一のみかんの適地、豊かな漁場という自然環境がまず一つ。そしてもう一つ、私は、忽那諸島には人を育てる力があるんじゃないかと感じています。

最近、丸の内朝大学という東京の社会人向けの教育プログラムで、日本各地の魅力を学ぶ講座の一つに忽那諸島も取り上げてもらっているんです。講座の一環で、島でのフィールドワークを受け入れているんですが、自分の子どものような年齢の人が「ただいま」と言って何度も島に来てくれるんですよね。どうやって仕組みにしたらいいか明確でないのですが、この島だから提供できる価値があるんじゃないかと考えています。実際に、子どもを対象にしたフィールドワークのイベントでは、帰る頃に子どもがたくましくなっているんですね。そういうのを見ているのは本当に楽しいですね。

これまで長い間地域に関わってきて、地域を良くすることは簡単ではないと思います。でも、諦めてはいけない。島の人たちだけでなく、外部の人の力も借りて、自分ができることを精一杯やっていきたいですね。そのためにも、メディアの取材から旅人まで、どんな人にも足を運んで欲しいなと思っています。

田中政利さん
1946年生まれ。愛媛県松山市にある忽那諸島の一つ、怒和島(ぬわ)出身。島の振興に取り組む。